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IAMASのはじまり、坂根厳夫先生を偲んで

明貫紘子(映像ワークショップ合同会社代表/キュレーター/アーキビスト)

2025年2月24日、IAMASの修了研究発表会?プロジェクト研究発表会「IAMAS2025:苦悩と誠実」の最終日にソフトピアジャパン?センタービルにて、追悼トークイベント「IAMASのはじまり、坂根厳夫先生を偲んで」が開催された。

ゲストに、1996年のIAMAS開学以前から坂根先生と交流があった岩井俊雄氏(絵本作家、メディアアーティスト)と山元史朗氏(テクニカルディレクター)が招かれた。IAMASからはSFC時代の坂根先生の教え子でもある鈴木宣也学長が参加し、クワクボリョウタ教授が聞き手をつとめた。トークイベントは午後4時から、1分間の黙祷をはさみ1時間30分ほど行われた。残念ながら筆者は当日、都合がつかず、会場に足を運ぶこともライブ配信を見ることもできなかった。その代わりに、記録映像をじっくりと見返した。また、トークで言及された坂根先生の著書やIAMASの出版物をあらためて読み返し、自身の記憶を辿る機会にもなった。

イベント冒頭、クワクボ教授の呼びかけで、1分間の黙祷が行われた。
会場:ソフトピアジャパン?センタービル4F

私はIAMAS5期生で、「岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー」時代のアート&メディア?ラボ科最後の卒業生だ。新旧IAMASの移行期間で、2年生の時には大学院のカリキュラムが始動しており、新しく設置された「メディア美学」に所属した。坂根先生はじめ、次期学長の横山正先生、新任の吉岡洋先生、そして当時は助手だった山元史朗氏らと、ゼミと称して雑談していた贅沢なひとときから四半世紀近く経過しようとしている。

トークイベントで登壇者が披露した坂根先生とのファーストコンタクトにならうと、私の場合は、2000年の冬、IAMAS入学試験の面接だった。「君の言っていることは意味が分からないなぁ……」と言われ、不合格を確信した。にもかかわらず入学することができたが、在学中は坂根先生にはなかなか近づきづらく、坂根先生の功績についても理解できていなかったように思う。しかし、今、追悼イベントのope体育_ope体育app|官网執筆を通して坂根先生と向き合えることを光栄に思う。坂根先生がIAMASの学長であられたのは開学から2003年までの7年間だ。その頃の一端を知る卒業生の一人として、追悼イベントで話されたことを軸にして個人的な記憶もおりまぜながら、IAMASに残された坂根先生の痕跡を掘り起こしてみたい。

1980年代:新聞記者として

ジャンボトロン

追悼トークイベントは、1985年に茨城県の筑波研究学園都市で開催された国際科学技術博覧会(通称:つくば科学万博)を象徴するソニー製の巨大なテレビモニター「ジャンボトロン」が映し出された記録映像で始まった。「ジャンボトロン」を使ったアーティストによるメディアパフォーマンスはしばしばメディアアート史で言及される。万博最終日に開催された《TV EV Live: TV War》以外にも、ビデオアート上映やパフォーマンス公演などが行われた。坂根先生はその立役者の一人で、記録映像にはエド?タネンバウムのパフォーマンス《ファンタスティック?エコー》について解説する姿があった。

巨大なテレビモニター「ジャンボトロン」に映し出されて作品解説をする坂根先生(1985年のつくば科学万博の記録映像)

2つの連載と展覧会

その解説で、坂根先生はタネンバウムの作品《レインボー?エコー》(1983-84年)を、自身が企画した展覧会「遊びの博物館Part2」でも紹介したことに言及した。同展は、1984年に朝日新聞主催で全国各地で開催され、その前身にあたる展覧会「ひろがる視覚世界:遊びの博物館」は1979年に開催された。この展覧会は、坂根先生が新聞記者として1975年から朝日新聞日曜版の家庭欄で連載した「遊びの博物誌」の記事がまとめられて出版された本がベースになった展覧会である。坂根先生は連載「遊びの博物誌」と同時期に、もう一つの連載「科学と芸術の間」を文化欄で担当した。その連載は、科学と芸術の境界領域がテーマで、「拡大する視覚世界」「境界線の旅」とタイトルを変えながらも約10年つづき、1984年に『境界線の旅』として出版された。同著で坂根先生は、「メディア?アート」という言葉を通して、メディア産業的なアプローチではない、「人類の知的創造の手段」としての科学と芸術の接点のあり方を訴えた。

このように、坂根先生は1970年半ばから主に北米でリサーチしながら2つの連載を朝日新聞で続け、それを元に1980年代から本格的にキュレーターとして展覧会を企画していった。1989年には現象芸術をテーマにした「フェノメナート展」(アジア太平洋博覧会)やインタラクティブアートの国際的な展覧会「不思議の国のサイエンスアート:インターラクティブ?アートへの招待」(神奈川サイエンス?パーク)を企画した。

1990年代:教育者として

SFC時代

坂根先生は1990年に朝日新聞社を退職後、同年、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に開設された環境情報学部の教授に就任して6年間教鞭をとった。鈴木学長は1990年に同学部へ入学し、坂根先生の授業を受けた。トークイベントでは、現在のIAMAS学長という立場から、坂根先生の教育者としての側面について自身が保管していた資料を共有しながら振り返った。鈴木学長が実際に受講した坂根先生の授業「現代芸術論<サイエンス?アート概論>」のシラバスの目標は下記のように書かれていた。

現代における科学?技術?芸術の相互作用から生まれた新しい芸術の世界の状況を展望し、人類にとっての文化の創造の意味と役割、未来を探る。

鈴木学長によれば、SFCで受講した数多くの授業のなかでも坂根先生の授業は印象に残っているという。特に、ope体育_ope体育app|官网を書く課題のために訪れた、ワタリウム美術館で開催されていたハラルド?ゼーマンがキュレーションした展覧会「Light Seed」に展示されていたヴォルフガング?ライプの作品に衝撃を受けた。

SFCは1995年のインターネットインパクト以前からいちはやく学内でインターネット基盤が整備されたことで知られる。いわゆる美大ではない大学で、学生たちがスケールの大きなテーマで新しい芸術の潮流を扱う授業に面食らいつつも刺激を受けていたことがうかがえる。その他、「環境デザイン論」「環境芸術論」といった授業では、環境をつかった作品を企画する課題もあり、鈴木学長はそのプレゼンをしたことが坂根先生とのファーストコンタクトであった。また、坂根先生は「マルチメディアによるサイエンス?アート?ワークショップ」というゼミを持ち、Apple製コンピュータのソフトウェア「ハイパーカード」を使った作品制作演習をおこなった。当時、SFCはUNIX系のコンピューターが中心だったが、坂根先生の希望でApple製コンピュータが30台ほど用意されたようだ。

IAMAS時代

続いて、鈴木学長は自身が編集を担当した「IAMAS 十周年誌 I」(2007年)に掲載された坂根先生のインタビューを共有しながらIAMAS設立時のエピソードを振り返った。

鈴木学長学長がIAMAS開学イベント(1996年)の写真を紹介。

IAMASは当時の梶原拓岐阜県知事の肝入りで設立された。坂根先生がIAMAS開学に向けた諮問委員会に関わった時点では技術者の育成が目標になっており、学校名も「先端情報技術アカデミーGIFU」という名称が想定されていた。しかし、坂根先生は学長就任の条件として、アートを含めたクリエイター育成も組み込むことを知事へ提示した。最終的に、「国際」、「科学」、「芸術」が学校名に盛り込まれ、坂根先生らしい学校名「国際情報科学芸術アカデミー」が誕生した。鈴木学長は坂根先生の学長就任によって構想の方向転換があり、結果的にIAMASの発展につながったと指摘した。

坂根先生はIAMASで「メディア文化特論」を開講した。この授業は著名なアーティストやテレビプロデューサーなど企業からもゲストを招いて2週間毎に行われた。山元氏は助手として彼の授業に繰り返し立ち会い、インタラクションの準備のために欧米諸国の作家のスタジオを訪ねて回る坂根先生の「鞄持ち」という役割もあった。しかし、ジャーナリストでもあった坂根先生は両肩いっぱいの撮影機材や荷物を彼に持たせてくれなかったという。山元氏はIAMAS時代の坂根先生の傍らで多くの時間を過ごした人物の一人で、学生たちよりも坂根先生に多くを学ばせてもらったのではないか、と振り返った。

当時を振り返る、ゲストの山元史朗氏(左)と、岩井俊雄氏(絵本作家、メディアアーティスト)(右)

鈴木学長はたまたま「メディア文化特論」をサポートした時に使われた坂根先生のスライドデータを披露した。ジェイコブ?ブロノフスキー著『Insight』(1964年)にある芸術と科学の起源が人類の「サバイバルのツール」であった、という引用から始まる一連のスライドは坂根先生の授業を追体験するかのようでもあった。そのスライドからは、「IAMASのこれから」にかかげられたビジョンに含まれる「科学的知性」と「芸術的感性」にこめられたコンセプトの源流を見出すことができる。

科学も芸術も、いずれも人類の祖先がサバイバルのために生み出した智慧。人類がよりよく生き抜くために、知性と感性という二つの能力を出しあってその後の歴史を築きあげる共労の第一歩だった。

スライドの終盤で坂根先生は、ポリオワクチンを発明したジョナス?ソークがジョナサン?ソークと出版した『World Population and Human Values: A New Reality』(1981年)を引用して、人類の未来を見据えた科学と芸術の役割についても展望した。ソークは、「Our greatest responsibility is to be good ancestors.(私たちの最大の責任は、良き祖先となること)」という言葉を残し、短期的な利益や利己的な価値観から脱却し、長期的な視点と持続可能な社会への移行を提唱したことでも知られる。鈴木学長は、これらのスライドから、将来の社会課題を乗り越えるための手段として「科学技術」と「芸術文化」の融合を捉えていた坂根先生の先見的で深い洞察について指摘した。

鈴木学長は、当時の坂根先生が授業で使用したスライドを紹介。坂根先生は『World Population and Human Values: A New Reality』(1981年)を引用しながら、「科学技術」と「芸術文化」の融合の意義について論じた。

インタラクションと客員芸術家制度

坂根先生が教育現場で重要視したのは、アーティストらと学生の国際的な交流であった。IAMASで行われたビエンナーレ形式のフェスティバル「インタラクション」と客員芸術家制度は、IAMASの学生のみならず、教員やスタッフにもコラボレーションの機会をもたらした。それは、これまでになかった新しい学校を形づくるエンジンになり、新しい創造的な活動を求める人々の関心をIAMASへ引きつけた。まだ大学院生だった鈴木学長と山元氏がIAMAS開学前のプレイベントとして開催された展覧会「インタラクション’95 インターラクティブ?アートへの招待展」の設営アルバイトをきっかけに助手に採用されたことが、その成果の第一歩だったとも捉えることができる。

「インタラクション」は、2001年まで全4回開催された。坂根先生の退官後は「おおがきビエンナーレ」とタイトルをかえてフェスティバルの開催が引き継がれている。一方、客員芸術家制度は招聘アーティストを指名制から公募制に変更したり、非西洋圏のアーティスト招聘に力を入れたり、エンジニアを受け入れるなどしながらも2007年に終了していた。しかし、鈴木学長によれば、2025年から客員芸術家制度を復活させる予定だという。私は、客員芸術家制度の恩恵を知る学生の一人なので、この復活をとても嬉しく思う。プログラムもできなければ作品も作らない自分の居場所がIAMASにないと感じていた頃、客員芸術家として滞在していたリュック?クールシュヌ氏のプロジェクトに関わったことが転機になった。彼にキュレーターの道をアドバイスされなければ、その後の私の人生は違うものになっていただろう。

坂根先生が世界へ導いたメディアアーティスト:岩井俊雄

岩井氏は坂根先生に言葉で語りつくせない恩義があるという。岩井氏のメディアアーティストとしてのデビューや国際的な活躍の傍らには坂根先生の姿があったからだ。岩井氏はトークイベントで、坂根先生と共にあった活動について、さまざまな資料を共有しながら振り返った。

出会い

坂根先生と岩井氏のつながりは、1979年に開催された「遊びの博物館」のカタログを高校生の時に美術教師から見せてもらったことから始まる。岩井氏は、このカタログの付録にあった月の立体写真をアナグリフ式で見た時の衝撃を今でも鮮明に覚えているという。その5年後、筑波大学3年生だった岩井氏は展覧会「遊びの博物館Part2」を実際に見た。翌年、つくば科学万博の開幕直前に開催された「ハイテクノロジー?アート国際展」に関連した公募展で、岩井氏は卒業制作作品《時間層》で金賞を受賞した。審査員の一人だった坂根先生は岩井氏の作品を高く評価した。

坂根先生が企画した「遊びの博物館」の展覧会図録を岩井氏が紹介。

「不思議の国のサイエンスアート:インターラクティブ?アートへの招待」(1989年)

坂根先生は本格的なメディアアートの国際展「不思議の国のサイエンスアート:インターラクティブ?アートへの招待」を企画し、同展で展示された作品群を「作家の主張を表現するための作品ではなく、むしろ見る人が自分自身による自己発見を可能にする触媒的作品」※1と紹介した。岩井氏は同展に唯一の日本人アーティストとして参加し、さまざまなインターフェースを実験した作品「MAN-MACHINE-TV」シリーズを発表した。岩井氏にとって、この展覧会に招待されたジェフリー?ショーやポール?デマリニスらとの出会いが、その後、国際的に活動が広がるきっかけになった。

セビリア万博(1992年)

坂根先生はスペインで開催されたセビリア万博に出展した日本政府館の「サイエンス?アート?ギャラリー」を担当し、「光の縁日(日本の夏祭り)」をテーマにした展覧会を企画した。岩井氏はそこで「時間層」シリーズを展示した。その後、1995年に同展の一部が大阪府庁新別館で凱旋展示された。今年の大阪?関西万博に合わせて、大阪府立江之子島文化芸術創造センター/enoco にて《時間層IV》を含めた再現展示が予定されている。坂根先生の映像記録には、セビリア万博での岩井氏の制作風景や他の作品の記録も含まれているので、この機会に活用が進むことを期待したい。

インタラクション’95(1995年)

岩井氏は坂根先生を通して出会った、ジェフリー?ショーが当時ディレクターをつとめていたドイツのカールスルーエ?アート?アンド?メディア?センター(通称:ZKM)のレジデンスプログラムに招聘され、代表作となる《映像装置としてのピアノ》(1995年)を制作した。そして、同作品を使ったパフォーマンスをIAMAS開学の前年に開催された「インタクション’95:インターラクティブ?アー トへの招待」展で発表した。さらに、岩井氏はIAMASの初めての客員芸術家として、《映像装置としてのピアノ》の発展形で、坂本龍一とのコラボレーションで制作したパフォーマンス《Music Plays Images X Images play music》(1996年)を制作した。本作は1997年のアルス?エレクトロニカ?フェスティバルで最優秀賞であるゴールデンニカを受賞した。岩井氏は、IAMASのスタッフや学生との出会いと設備のおかげでプロジェクトが成功したと回想した。

岩井氏は初めてのIAMASの客員芸術家。当時のIAMASでの作業風景が坂根先生が撮影した記録映像で紹介された。

岩井氏はIAMAS客員芸術家として、坂本龍一氏とのコラボレーションによる《Music Plays Images X Images play music》(1996年)を制作。1997年のアルス?エレクトロニカ?フェスティバルで最優秀賞であるゴールデンニカを受賞。

坂根アーカイブのゆくえ

坂根先生は常に記録していた。両肩に機材を持ち、時には三脚を立てて映像や写真で記録した。トークイベントでは、クワクボ教授がセレクトした坂根先生の貴重な記録映像がたびたび紹介された。そこには、アーティストや学生たちとの対話、作品の記録、路上の怪しいおもちゃ、移動中の記録など坂根先生の好奇心の痕跡が残されていた。これらの映像は、坂根先生が残した資料から約1100本のMiniDVを2015年にIAMASが文化庁の助成を得てデジタル化したものの一部である。坂根先生の歩みをたどることは、そのままIAMASの始まりと軌跡を振り返り、現在地を確認することにもつながる。坂根先生が残した著書に加えて膨大な記録資料はもうすぐ30周年を迎えるIAMASの未来を展望する糧にもなるだろう。観客席にいた東京都現代美術館学芸員の森山朋絵氏が「坂根先生のおかげでいろんな人との出会いと再会があった」とコメントしたように、坂根アーカイブを通して坂根先生が築いた国際的なネットワークを引き継ぐきっかけになる可能性もある。

坂根先生が一貫して重視した「科学」と「芸術」の境界領域にある可能性に、IAMASの理念は基づく。トークイベントを通して「科学と芸術の融合」とは、単純な学際的なコラボレーションという意味ではなく、人類の生存と創造の本質にかかわる問いを投げかけるものであったことを明らかにした。それは、気候変動や安全保障など地球規模で大きな不安を抱える現代、早急に向き合わなければいけない問いでもある。IAMASの元教授の吉岡洋氏は、「IAMAS 十周年誌 I」(2007年)に寄稿した「IAMASの、次の十年のために」において、「科学と芸術の融合」というスローガンは「すぐれて20世紀的なテーマであるだけではなく、きわめて西洋的なテーマである」 ※2と指摘した。加えて、1990年代にIAMASが設立され国際的に注目された背景には、日本がテクノロジーとサブカルチャーを牽引した特殊な時代があったことを忘れてはならないと述べた。吉岡氏が「科学と芸術の融合」について、新しい枠組みで再解釈していくことの必要性を指摘したように、たびたび坂根先生が掲げたテーマに立ち戻り、アップデートしづづけることが求められる。そのためにも、坂根先生が残したアーカイブや理念を引き受けつつ、「科学」と「芸術」の溝だけではなく、世代や国、ジェンダーといったあらゆるギャップと専門性を超えた対話がIAMASで継続されることを願いたい。

最後に、IAMAS開学時の坂根先生のインタビュービデオが紹介された。
「これから大事なことは、アイデアの力。自由な発想ができる人、イマジネーションが持てるっていうこと。好奇心がすごくある人、好きなことのためには寝食を忘れてやれるっていう人」

参考文献

坂根厳夫著『遊びの博物誌』朝日新聞社、1977年
坂根厳夫著『新?遊びの博物誌』朝日新聞社、1982年
坂根厳夫著『境界線の旅』朝日新聞社、1984年
坂根厳夫著『拡張された次元:芸術と科学の相克を超えて』NTT出版、2003年
坂根厳夫著『メディアアート創世記:科学と芸術の出会い』工作舎、2010年
馬定延著『日本メディアアート史』ARTES、2014年
カタログ「不思議の国のサイエンスアート:インターラクティブ?アートへの招待」アート&サイエンス国際展実行委員会、1989年
カタログ「インタラクション’95:インターラクティブ?アートへの招待」岐阜県、国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)開設準備室
福森みか、廣田ふみ、河村陽介、小林昌廣、シュナイダーアンドレアス、横山正編「アーティスト?イン?レジデンス1996-2007」ope体育_ope体育app|官网メディア文化センター、2008年
鈴木宣也、小林桂子編「IAMAS 十周年誌 I」IAMAS(ope体育_ope体育app|官网+国際情報科学芸術アカデミー)、2007年

注釈

※1 カタログ「不思議の国のサイエンスアート:インターラクティブ?アートへの招待」p.4

※2 吉岡洋「IAMASの、次の十年のために」、「IAMAS 十周年誌 I」2007年、p.26