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教員インタビュー:菅実花准教授(前編)

テクノロジーと身体や知覚をめぐる問い

― インタビュー前半ではアーティストとしてのご自身の創作?研究活動について、後半ではIAMASでの教育内容についてお伺いします。
菅さんは、「妊娠したラブドール」をマタニティ?フォトの形式で撮影するプロジェクト「ラブドールは胎児の夢を見るか?」(2015-)から、写真作品《The Future Mother》を2016年の東京藝術大学修了制作展で発表し、注目を集めました。以降も、「精巧な等身大の人形を、既存の写真文化のフォーマットを流用して撮影する」というメディアの多重性を戦略的に用いるシリーズを制作されています。
「I Won’t Let You Go(あなたを離さない)」(2019-)では、ご自身そっくりに造形したラブドールと「双子のセルフポートレート」を撮影しました。また、「The Ghost in the Doll(人形の中の幽霊)」(2018-)では、子どもを亡くした母親のために乳児を精巧に模した人形「リボーンドール」を被写体とし、「死後記念写真」(遺体を生きているかのように撮影する19世紀半ばに流行した写真文化)の手法を用いて湿板写真で撮影しています。「被写体を静止画として固定する」という写真の作用によって、生きている人間と人形?死体、生命体と人工物の境目が融解してなくなっていく状況を巧みに生み出していると思います。

菅実花《Untitled 08》2020

菅実花《Pre-alive Photography 10》2019

一方、近年は、人形を用いず、デジタルカメラのフィルターの操作によって「人間の知覚」そのものを問い直す作品も発表されています。作家としての関心の軸には、テクノロジーと身体や知覚の関係があると思うのですが、いかがでしょうか?

おっしゃった通りで、2016年の修了制作の頃はあまり自覚的ではなかったのですが、制作と並行して19世紀の写真を研究対象にして調べていくうちに、写真には魔術的な作用があると思いました。生きている人間の魂を吸い取ったり、逆に亡くなった人に魂を与えるような作用です。それは現代でも残っているのではないかと感じて、作品として展開しました。
はっきり言語化できたのは、2020年に博士論文を書き終わったタイミングです。博論のときは枝葉の部分でしたが、「鏡の歴史」が自分のリサーチの横側に出てきたんです。鏡、ガラス、写真は、テクノロジーとしてすごくつながっている。テクノロジーの進歩によって鏡が普及したことで、人間の認識が変わった。でも、人類の歴史は、そのようなテクノロジーの進歩による認識の変化の繰り返しではないかと思い至ったのが、2021年頃でした。それ以前も何となく考えていたけど、なぜそう言えるのかが自分の中で理論として立てられていなかったのですが、それ以降は、テクノロジーと人間の知覚をテーマにしようとはっきり決めました。

博士論文のテーマは「人形写真論」

― ご自身の中で言語化できたのが博士論文を書いた後だったことは、重要だと思います。東京藝術大学のように、実技系の学生が論文を書くのは負担が大きいと思います。ただ、リサーチや言語化の作業によって「自分の表現の核が何か」が自分でわかってくる。それはアーティストとしての成長につながります。菅さんの博士論文のテーマは何だったのでしょうか?

「人形写真論」です。「人形写真」は、写真が発明されて約100年後に、バウハウスでモホリ=ナギが始めたのが最初です。もちろんそれ以前に、人形が写真の中に写っていることはありましたが、「作品」として前面に押し出したものはありませんでした。モホリ=ナギは、人形を写真に撮ることで「生きていない物に生命を付与する」ということを書いていて、バウハウス出身の他の写真作家たちも人形を撮る作品を残しています。人工物だけど、100%生きている人間に見せるというより、そのあわいというか、「写真なのか?絵なのか?人間なのか?」と疑問をもたせるつくり方をする作家が多かったんです。
それ以降も、杉本博司やシンディ?シャーマンなど、人形を撮った写真作品をつくる作家はいます。私の研究では、それらを先行作品としつつ、現代において「人形写真」について何が言えるかを考察しました。要点は2点あります。1点めは、ロラン?バルトが人形写真について書いたことを踏まえて、新たな定義として、セルフポートレート性が内在していることを付け加えました。2点めは、「人形写真」には約100年間の歴史がありますが、ずっと効果があるものではなくて、表現効果が終わるときがどのような条件なのかをはっきりさせることです。
「人形写真はいつ終わるのか」の条件は、1つは写真の側にあります。というのは、先行作家は全員フィルム撮影なんですね。モホリ=ナギが言ったことはフィルムだからこそ成立したけれど、デジタルの時代の私たちはもうそういうことは言えないんじゃないか。「写真が事実の痕跡である」ということが無効化されたら、人間なのか人形なのかを誰も証明できなくなるからです。2つめの条件が、自分が関心のあったアンドロイドやクローンを含めた、ポストヒューマンの観点です。「人間」の概念が拡張されて、どこまでが「人間」と言えるのかという境界がズレていったときに、「人形写真」という区分が無効になるということを書きました。

― 非常にクリアな論点ですし、「人形写真」を起点に、写真の歴史とポストヒューマンという観点へ広がっていくのも面白いと思います。論文では、「人形写真」を扱いつつも「終わりが来る」と宣言しているんですね?

ただ、デジタル写真が痕跡として全く信じられていないかというと、そうではないですよね。ある程度は加工可能だけど、「こういう風景や人がいた」ということが、生成AIの画像のように不確かではないので、まだ有効だと思います。ただ、「いつかは終わりが来るし、生成AIによって終わりが早まった」という言い方をしています。

リサーチの重要性と対象:既存の写真文化を流用する理由

― 博士論文に限らず、作品制作にあたって綿密にリサーチされる作家だと思います。リサーチの比重や制作との関係性についてお聞きします。

「手を動かしながら考える」前に、リサーチが入っているタイプですね。写真文化や人形文化を知った上で、そこから何を考えられるか。私は未来を想像することが多いのですが、「未来においてどういうことがありえるか」を、過去の事例を参照しながら言おうとしています。ですので、過去のリサーチがない状態だと、自分が考えていることがあっても表現には結びつきにくいです。

― 菅さんのリサーチや作品の特徴は、ハイアートに限らず、映画『ブレードランナー』に登場するアンドロイドや、アニメの『攻殻機動隊』に出てくるようなサイボーグ化された身体、フランケンシュタインなど、サブカルチャーの領域も対象とする点にあると思います。

自分がリサーチするとき、「その概念がその文化においてどのくらい浸透していただろうか」を考えることが多いです。「写真文化」や「人形文化」という言葉を使う理由は、一人の作家による独自の表現ではなくて、大衆の中に広まってサブカルチャーとして親しまれ、多くの人に共有されていたことが重要だと思っているからです。みんなが死後記念写真を求めたのはどういう心理だったのか、リカちゃん人形をみんなが欲しがったのはなぜだったのか。そちらに興味の対象があります。

― 死後記念写真は、作家性のある写真としては認知されていないけれど、亡くなった子どもを生きているままで留めたいという欲望と結びついて流行したわけですよね。セルフィーや死後記念写真など、菅さんが作品に使う既存の写真のフォーマットは、時代も、デジタル写真と湿板写真というメディアもかけ離れているように見えますが、テクノロジーに対する人間の生の欲望と結びついている点が重要だと思います。

写真は比較的新しい時代に登場したテクノロジーなので、それが出てくる前はなかったのに、そこにどう人間が欲望して飛びついていったのかが見えやすいんです。セルフィーの場合は、インカメラが付いてアプリの入ったスマートフォンが開発されたことで、急速に広まりました。写真自体も、ダゲレオタイプが発明された最初期に、キリスト教の観点から「神の冒涜だ」という批判を受けました。新聞に書かれたり、プラカードを持った人が集まって抗議したことが記録に残っています。でも、それ以上に、人の肖像写真を手に入れたいという欲求の方が勝っていた。そこが興味深いです。
過去の既存の文化を流用することは、オマージュというか、どの程度似せるのかも含めて、どのように人に伝えられるかについて考えています。

「妊娠するラブドール」というビジョンの作品化

菅実花《The Future Mother 10》2017

― 個別の作品についてお伺いします。まず、「ラブドールの妊娠」をマタニティ?フォトとして撮影した《The Future Mother》について。私はこの作品を最初に見たとき、フェミニズム的な観点から出発しているのかと思いました。でも、『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』(青弓社、2018)に収録された菅さんの論考では、アンドロイドやサイボーグの表象と人工子宮など生殖テクノロジーの進歩がかけ合わさって、「アンドロイドが妊娠する未来」を想像して作品化したと書かれています。アンドロイドは人工物であり、セックスとしての性をもたない存在ですし、ラブドールには男性型もありますが、なぜ女性に似せた姿にしたのでしょうか?

最初の発想は、綿密な理論の組み立てから導き出したのではなく、「ラブドールが妊娠する」というビジョンがバーンと頭に浮かんでしまったんです。ラブドールもマタニティ?フォトも知っていたし、それまでやっていたリサーチが急に頭の中でビジュアルとしてつながってしまった。で、これはいったい何なんだろうと思って、もう一度、再解釈を始めたプロセスの中から、この作品は出てきています。
リサーチすると、未来における人工子宮のビジュアルイメージは、映画に出てくるような、細胞培養器がたくさん並んでいて、人間が人工的につくられるというものです。でも、そういう未来のディストピアのよくあるイメージを自分がなぞる意味はないと思いました。実際には、未来において、アンドロイドに人工子宮が実装されることはないと私は思います。動き回る機械の中に胎児を入れるのは、危なすぎるので(笑)。現実的に考えると、ディストピア的な、培養される保育器のような形になると思います。ただ、未来予測ではなくて、1つの思考実験として、アート作品なら有効だと思ってつくりました。
もう1つの「男性が妊娠する」というビジュアルを採用しなかった理由は、いくつかあります。妊婦の作品のリサーチをしていくと、妊娠のビジュアルを描いた作家がそもそも少なくて、クリムトの妊婦像くらいしかない。その中で、岡田裕子さんの《俺の産んだ子》(2002/2019)が先行作品として出てきて、すごく良い作品だなと思いました。また、マタニティ?フォトを芸術的に解釈して、「生命の神秘」みたいな感じで作品化した例もあるのですが、自分はそれとは違うなと思いました。
男性が妊娠するビジュアルに関しては、岡田さんの作品以外に、2つの先行事例がありました。1つは、アーノルド?シュワルツネッガー主演の『ジュニア』(1994)というコメディ映画です。男性科学者が実験によって妊娠してしまって、「妊婦あるある」を筋骨隆々のシュワルツネッガーがやっているギャップが面白いという。岡田さんの作品もユーモアがあるので、系譜としては同じかなと思いました。
もう1つは、アメリカのシカゴで、未成年の妊娠を防止するキャンペーンで使われた「少年が妊娠する」というビジュアルです。やんちゃそうな少年たちが、セミヌードでお腹が大きい姿で「後悔している」「こんなはずじゃなかった」と一言付いている。特に若年層の男性が、自分ごととは考えずに避妊しないで未成年の女性を妊娠させてしまう社会問題に対するキャンペーンで、非常にシリアスで啓蒙的でした。
自分の中で、「男性が妊娠するビジュアル」は、コメディか啓蒙でした。コメディでも啓蒙でもないあり方で、新しいビジュアルイメージが自分にできるのか、正直思い浮かびませんでした。
また、男性型のラブドールは存在しますが、日本では売ってなくて、輸入するというハードルがありました。さらに、とても重くて60キロ以上あるんです。私が作品をつくるときのポリシーとして、人に任せられる部分と、絶対に人に任せられない部分を、はっきり線引きしています。人形のポージングやセッティングに関しては、人に任せたくないという思いが強いので、60キロの人形を自分で扱うことができないという物理的な問題がありました。しかも、造形も、私が求めているリアルさではなかったんです。
では、なぜ女性型のラブドールを妊娠させるのかというと、はっきりテキストには書いていませんが、フェミニズム的な観点はやっぱりあります。「この作品はどういう意味なのか?」と考えたときに、「男性が女性のことをどういうふうに見ていますか」という質問だと思ったんですよ。「主体性のある人間だと思って接していますか?」ということを問いたかったんです。「生身の女性をラブドールのような存在だと思っていませんか?」というのがストレートなメッセージです。でも、それだけを言いたいわけではなかった。未来の生殖のあり方や、人間とは何かという問いなど、考えてきたことを全部込めたら一つの作品になるんじゃないかと思って、「ラブドールが妊娠する」というビジョンにくっつけていきました。

フェミニズムとの出会いと、作品としての出し方:間口を広げて、見た人に考えてほしい

フェミニズムはずっと自分の中にあります。実は、最初から理論としてフェミニズムに出会ったわけではなくて、人造人間のフランケンシュタインのリサーチで出会いました。小説『フランケンシュタイン』(1818)を書いたメアリー?シェリーの母親のメアリー?ウルストンクラフトが、18世紀後半に「女性の教育の権利」を主張した人なんです。「女性に教育はいらない」と言われていた時代に、「教育を受けたら変わる」と主張して、女性が「人間らしく生きる」ことに当てはめられないような状況を打ち破っていった人たちがいた。それを知って、今ある「当たり前」は最初から「当たり前」ではなかったし、「違う」と思ったことは壊していかないといけないと思ったんです。
フェミニズムはずっと根底にあって、作品として表に出てくることはありますが、自分の関心としてはそれだけではない。人間と「人間ではないもの」の境界といった関心に、「当たり前にあるフェミニズム」をプラスして作品をつくっていると思います。

― 『〈妊婦〉アート論』でははっきり書かれていませんが、根底にはフェミニズムがあるとお聞きできて良かったです。ただ、「当たり前」のものとしてフェミニズムがまだ社会に浸透していないので、個人的にはもっと主張してほしいとも思います。

そうですね。すごく悩むところで、「もっと打ち出してもいいんじゃないか」と言われることはあります。ただ、2016年に発表した段階では、「これはフェミニズム?アートの作品です」と言うと、そもそも「見なくていい」と思う人たちが出てくると思ったんです。そうではなくて、蟻地獄じゃないですけど、間口を広くしておいて、引っかかった人が考えてほしいと(笑)。思考の先に、「実はこれってフェミニズムだったんだ」と思ってほしかったという狙いがあります。


後編に続きます。


菅実花 / 准教授

機械や動物から見た人間社会をテーマに、現代美術の分野で、写真?映像と光学装置のインスタレーションを通じて「人間と非人間の境界」を問う。写真論、人形論、ポストヒューマン論を踏まえ、19世紀の文化をリファレンスに、生命と非生命や虚実の対比を撹乱する。また、大学美術教育における芸術実践論文についての研究を行っている。

 
インタビュー実施日:2025年1月17日
インタビュアー?編集:高嶋慈
撮影:福島諭(産業文化研究センター[RCIC]研究員)