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教員インタビュー:菅実花准教授(後編)

前編からの続きとなります。

自分そっくりの人形をつくることで変わった意識

― 次に、ご自身そっくりに造形したラブドールと「双子」の設定で撮影した「I Won’t Let You Go(あなたを離さない)」についてお聞きします。作品の動機として、映画や小説でのクローンが人間と殺し合ったり、奴隷化されたり、悲劇的な描かれ方をしているので、そうではないクローンの幸せなあり方を描きたかったと書かれています。自分にそっくり似せた人形を作るという生理的な気持ち悪さと、さらにそれをラブドールで作るという二段階のハードルがあると思うのですが、抵抗はなかったのでしょうか?

菅実花《Untitled 12》2020

人間と見間違えるくらいにリアルでそっくりの人形を作って、「双子」として撮影するアイデアがまずありました。ではどうやって実現するかをリサーチすると、技術的に私の求めているクオリティのものを出せるところは、マネキン系のメーカーか、ラブドールのメーカーかの二択に絞られました。すごく造形力の高いマネキン系のメーカーもありましたが、マネキンってそもそもの造形がファッションモデル的なんです。背が高くて、顔も小さくて。でも、私はすごく背が低くて、マネキン系のメーカーの人形の基準には全然似ていないので、お願いしても、自分に似た人形はたぶん実現できないと思ったんです。
一方、ラブドールは、最初に2016年の作品で使ったボディが身長150cmくらいで、背格好や肩幅、脚の長さも私と同じくらいです。ファッションモデル的な基準からすると美しくないのですが。造形師の方に、ラブドールの造形の基準についてお話を伺うと、「ちょっとどんくさくて、でも美しい形を目指す」とおっしゃたんです。それがすごく嬉しかった。
実は、ラブドールの作品を発表した2016年から2020年くらいにかけて、私の見た目に関するバッシングがけっこうあったんです。「作者がブサイクだ」と言われて、非常に傷ついていました。セルフポートレートの作品アイデアが出てきて、「絶対面白そう」という思いと、自分を表に出したくない気持ちが拮抗した時期がありました。でも、やっぱり面白い作品をつくりたいから、自分自身を型取りして人形をつくってもらうことに決めました。
信頼する造形師さんに自分の形を再解釈してもらって、出てきたものを見たときに、「この形ってそんなに悪くないじゃん」と客観的に思えたんです。鼻が低いとか、骨格としてだめだと思い込んできたけれど、全然大丈夫だと思って、セルフポートレートの作品をつくれました。それ以降は、外見に対して何か言われても、「私はそう思っていません」と精神的にも楽になりました。でも当時は辛すぎたし、「プロなら隠すべき」と我慢していたので、言えなかったです。

― 外見へのバッシングは、女性差別だと思います。美術に限らず、若くて才能があって注目されると、業績よりも、女性は見た目で判断されてしまう。見た目で貶めてやろうとか、逆に女性は見た目にしか価値が無いと。

そうですね、一番ひどかったのがやはり2016年でした。でも、自分の型取りの人形をつくってもらって「これでいいじゃん」と思えたことは、すごくありがたかったです。自分自身の形は何も変わっていないけど、捉え方が変わった。
信頼する造形師さんが解釈してくれた形を、セルフポートレートとして一緒に写真を撮る。特に横顔の写真は、鼻の低さや口が出ているとかもそっくりに写っているので、人形が美化されているわけではないと気づきました。結果的に、セルフポートレートの作品制作は、自分自身を認めるという行為になったことがすごく大きかったです。
ただ、この作品では、人形と人間を一緒に撮影して、「写真の中でそっくりに見える」必要がありました。造形師さんは骨格の造形は型取りのままつくってくださったのですが、まつ毛の長さやリップは完璧にメイクアップされた状態で仕上げるので、かなり濃いメイクをしないと人形に似ないんです。人形の美しさは完璧に演出されてつくられていて、素の自分はそうではない。本当に素の自分が認められたのかというと、「人形に寄せて演出した自分はOK」という部分はありました。でも、「いいじゃん、これで」と理解しました。

― ご自身を人形そっくりに似せていくプロセスが二段階あったのは面白いですね。型取りは美化せずそのままだけど、写真に撮る工程では、逆にメイクで見た目を人形に寄せていく。

人間を人形に似せるには、肌をツルツルに加工するなど、レタッチ勝負になってしまうので、レタッチはせずに、メイクに加えて、撮り方の工夫をかなりしています。レンズにストッキングを被せてぼかしたり、オレンジ色の照明をたくさんたいて影が落ちないようにして、人間か人形かわからない感じにしています。

フェミニズムの表明と、セラピーとしての人形遊び

― その後、《Happy Dinner Party》(2023)という写真作品では、自宅で女子会をしている設定で、3体のラブドールを撮影しています。個展のタイトルが「Sisterhood」で、フェミニズム的な主張をストレートに出されていると思います。

菅実花《Happy Dinner Party 090》(2023)

2020年頃からフェミニズム系の展覧会に呼んでいただけるようになって、「フェミニズムの作品です」と自分で言ってもいいかなと思いました。裏話としては、実は前年に離婚して、友達に相談したら、みんなすごく優しくて、「やっぱり友情って良いよね」ということをストレートに言いたかったんです。30代になると、主婦になって子どもがいる人もいれば、バリバリ働いている人もいて、それぞれ立場は違うけど優しくしてくれたことがすごく嬉しかった。
3体のラブドールのうち、1体は私の型取りでつくったもので、残り2体はメーカーさんからお借りしました。年末年始にレジデンスのラウンジで撮っていて、みんな実家に帰って誰もいないから、大きな部屋で一人、ひたすら撮影に没頭しました。ある意味、この制作もセラピー的というか、お人形遊びって自己の再生のような行為だと思うんです。例えばリカちゃん人形だったら、リカちゃんとその友達がいて、悩みの相談を聞いてくれているというような。この人はどういう話をしているのか、相手が相談にのって励ましていることを想像しながら写真を撮りました。
この作品で言いたかったのは、「何が人間たらしめるかというと、人間性だ」ということでした。相談にのったり、人の気持ちを考えることがすごく重要だと思って、誰か一人が食事をつくるのではない平等な関係性を描きたかったので、クラッカーの上に自分で具材をのせて食べるカナッペというシチュエーションにしました。
イメージとしては、インスタグラムをめくっていく感じです。それまでの作品のように、「○○写真」といった写真文化にはこだわらず、自分自身の心情を反映しながら、普通のスナップとして撮りました。

アーティストとしての今後の展望:「機械の目」のポテンシャルの拡張

― アーティストとしての今後の展望についてお伺いします。ラブドールメーカーのオリエント工業とは約10年間お付き合いされてきましたが、2024年8月に閉業が発表されました。ラブドールを使った制作は今後難しくなるかもしれませんが。

オリエント工業は、その後11月に再開のお知らせを出しました。担当の造形師さんもいますので、新しいボディを注文する予定です。けっこう消耗して関節が歪んでいくので、立ち姿での撮影ができない状態のため、新作をつくるにあたり、新しいボディが必要なんです。
一方、ここ数年は、人形をメインにした作品以外のこともやっています。人形を使った作品は、テーマの表現の仕方が、映画的というか演劇的になりがちなんです。例えば、映画でロボットの役を人間の役者が演じることがありますが、自分の作品では「ロボットの役を人形が演じている」状態だったんですね。でも、そうではないやり方の方が、自分が考えていることが言えるんじゃないかと思って、2024年に「機械の目」をそのまま出した「サイボーグの惑星/Planet of the Cyborgs」シリーズを制作しました。このシリーズでは、デジタルカメラに取り付けられている赤外線や紫外線を遮断するフィルターを外した「フルスペクトルカメラ」で撮影しています。人間の知覚とは違うものを表現したい、それを人間の知覚の中にもう一度入れたいと思っています。表現の文法を変えたというか、「テクノロジーと人間の知覚」というテーマを極めたいなと。

菅実花《Camera, I》2024

また、眼球測定を用いて、鑑賞者が今どこを見ているかを分析する研究もやっているので、そうしたデバイスを用いた作品制作もしたいです。テクノロジーによる人間の知覚の拡張ですね。今まではひねった形で出していましたが、もっとストレートな形でできそうだなと考えています。
そもそも、普通のデジタルカメラってフィルターで制限がかかっているんです。本当はカメラのポテンシャルとしては紫外線も赤外線もぜんぶキャッチできるのに、人間の肉眼の波長に抑えるフィルターが入っている。でも、フルスペクトルカメラはそれをとっぱらった改造機なんです。私は、カメラがもっているポテンシャルを最大限に活かして、ものを見てほしくて(笑)。人間の肉眼で見える色調にわざわざ限定するのは、すごく窮屈な感じがしていて、「本当はもっとあなたはすごいんだよ」「あなたが見れる世界はもっと豊かなんだよ」という気持ちでやっています。

菅実花《Bird’s, Bug’s, Mechanical Eyes》2024

― 実際にそのカメラで撮影したものを見たときはどう感じましたか?

完全にすべての諧調を撮っているときと、何かを制限しているときって、やっぱり違うなと。このカメラで撮ると、虫や鳥が見ている世界をシミュレーションできるんです。例えば、虫が見ている花は色が違うし、葉っぱと花弁が同じ色で、花の中心部分だけ目立つ色がついて見えたりする。植物がそのように進化して虫を呼び寄せるようになったし、虫もそれを見て蜜の場所が認識できるようになったことがわかりました。人間は葉っぱと花を分けて見るけど、そうではない認識の仕方があることに気づいて、とても良かったです。鳥の見え方はそこまでシミュレーションできてないのですが、人間の肉眼を基準としない見方はもっと考察できそうだと思いました。

― そうした観点は、ポストヒューマンやマルチスピーシーズともつながっていくのではと思います。

実は、人形論は、近接領域に動物論があります。人間ではないものを人間がどう考えられるか、人形と動物を関連させたり、かつて動物論で言われたことが人形論にどう適応できるかとか、いろいろな議論があります。私も「機械の目」を通して、人間中心ではない見方を、思考実験としてではなく、ビジュアルとして示せるのではないかと思っています。

― 工学者であれば、実際にどう実装できるかという方向で進めるわけですが、アーティストの場合は、必ずしも現実化は可能かどうかわからないけど、未来のビジョンを視覚的に提示してくれるところに役割があると思います。アンドロイドの妊娠もそうですし、人間以外の知覚を未来の人間が獲得したらどう見えるのかとか。近代以降、人間中心的な思考でテクノロジーや資本主義を発達させて今の社会システムができたわけですが、気候変動のように、このまま持続できないことがわかっている。そのとき、人間以外の存在も人間と同じように主体としてどう考えるかという難しい課題がありますが、アーティストは、視覚的なビジョンとして考え方の方向性を示してくれると思います。

おっしゃる通りで、私は科学者ではないので、未来はこうなるという確実なことは言えませんが、「もしこうなるとしたら、どう考えますか?」という問いかけはできるはずです。作品を通して「これが虫の見ている世界です」ということが言いたかったわけではなくて、人間の肉眼ではないものの見え方をしている主体もいるはずだということを言っていた。ただ、本当にそう見えているのかと言われると、最終的に私たちは肉眼で見ているから、たぶん違うんです。虫が見ている色はもっと光が反射して、すごい色に見えているはずで、でも私たちはそれを受け取る細胞を持っていないので、どうやっても同じ見え方はできない。ただ、「お互いに違うものを見ている」ということはわかる。限界はありつつも、虫も鳥も人間も同じようにものを見ているんだと思わないでほしい。それは機械の目も同じで、本当はもっとポテンシャルがあるのに、人間が人間の基準に寄せているだけだから、もっと面白いことができるはずだし、もっと豊かな世界があるはずだということを考えています。

IAMASでの授業と、入学希望者へのメッセージ:制作も論文も両方頑張りたい人を応援したい

― IAMASでは、どのような授業をされていますか?

私は演習系と座学系の両方を受け持っています。座学系では、身体とアート、ジェンダー、写真史として19世紀の写真の話をしたり、自分の作品の話もします。生命倫理や生殖技術史も話しました。自分が今まで研究してきたことから、トピックを切り出して伝えることが多いです。論文指導もやっています。2023年に、東京藝術大学社会連携センターの紀要に「芸術実践論文についての研究」を書きました。美術の実技系の修士?博士論文はどのように書くべきなのかについて、先行研究もひとつしかないので、自分の例も紹介しつつ書きました。それを読んで信頼して相談しに来る学生が多いと感じます。

― IAMASでは、修士でも論文が必須なんですね。

はい。作品と論文か、論文のみかを選べますが、多くの人は作品プラス論文で修了します。
私も大変でしたが、ラブドールの作品をつくりながら5万字くらいの修士論文を書いて、それを15000字に縮めたものが『〈妊婦〉アート論』に載っています。「不可能じゃないよ」と言ってみんなを応援する立場ですね。きちんと書いたら自分の中で理解が深まるし、それが本やシンポジウムなど次の仕事につながったらすごく良いから、「大変だけどやる価値はあるよ」と伝えています。

『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』(青弓社)

― 最後に、IAMASで学ぶ学生や、入学を考えている読者に向けて伝えたいことがあればお願いします。

IAMASの特徴として、作品と論文、あるいは「研究」と言った方がいいかもしれませんが、どちらにも重きを置いています。私がIAMASに勤めたいと思った理由もそこにあって、両方頑張りたい人を応援したかったんです。私自身、論文を書いてすごく良かったし、アーティストが論文をしっかり書くことに意味があると思うので、それをきちんと学びたい人には、自分の知識やスキルを伝えたいと思ってIAMASに来たので、「両方頑張りたい人はぜひ一緒にやりましょう」と言いたいです。

― 自分の表現領域で、過去にどのような表現や問いがあったのか、どのような社会背景が結びついているのかを理解することはとても重要だと思います。知識として歴史を学ぶのではなくて、作品制作と結びつけて意識してほしいと私も思います。

そうですね。ただ、論文にもいろんなタイプがあって、私自身は歴史研究から出発しましたが、次に書きたい論文は、データを元にした研究です。私自身、研究の幅を広げたいと思っています。歴史的な背景や文化を調べて作品を発想することもやってほしいし、一方で、実験やワークショップなど、実際にそこで起こったことから何が考えられるかという研究の仕方もあります。いろんな研究の方向で自分の考えを深めてほしいと思います。作品を通して研究したい人、あるいは研究として作品をつくりたい人。そういう人はIAMASが合うんじゃないかと思います。

― 次の論文はデータの検証から書く予定ということですが、さっきおっしゃった眼球測定の実験データでしょうか?

そうです。予定としては、2026年か27年に何らかの成果を出すことを目標にしています。

― 研究論文としての発表と、作品制作にも両方取り入れる予定でしょうか?

もちろん両方です。

― アイ?トラッキングを用いた作品としては、三上晴子さんの作品《Eye-Tracking Informatics》(2011年)がありますね。

三上さんの作品はすごくかっこよくて大好きですけど、今、2025年に何ができるのかを考えたいです。テクノロジーの進歩もあるしアイ?トラッキングを使った作品は一人ではできないので、何らかのコラボレーションをする形になりそうです。そうすると、いろんな人の考えや知識から良い作品が生まれると思うので、すごく期待しています。

― 面白そうですね。楽しみにしています。



菅実花 / 准教授

機械や動物から見た人間社会をテーマに、現代美術の分野で、写真?映像と光学装置のインスタレーションを通じて「人間と非人間の境界」を問う。写真論、人形論、ポストヒューマン論を踏まえ、19世紀の文化をリファレンスに、生命と非生命や虚実の対比を撹乱する。また、大学美術教育における芸術実践論文についての研究を行っている。

 
インタビュー実施日:2025年1月17日
インタビュアー?編集:高嶋慈
撮影:福島諭(産業文化研究センター[RCIC]研究員)